『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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52賀氏が投げたボールを精一杯に打ち返そうと、あえて京都橘氏説の疑問点を探すことにした。まず、ひっかかったのは橘広房の年齢である。以広の年齢と離れすぎていて、父子と見るのは無理があるのではないか。だから何かが間違っているのではないか。そんな思いの罠にはまって不安になっていたのだが、しかしその場合は、祖父と孫の関係と見ればいいだけのこと。そう気付きはしたが、いずれにしても二人の年齢差が気になった。例えばネットのウィキペディアで「橘広房」を見てみるとよい。こう書いてある。「天仁元年(1108年)に信濃守に任じられるが、在任中の天永二年(1111年)に、美濃国に向かう途中であった下野守源明国との間で私闘となり、同じくその場にあった源為義の郎党らと共に明国に殺害された」

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