『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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320この系図の流れで考えれば、惟広の子の惟基が当然「小鹿につながる」となりうるが、これを裏付けるものもまだ見つかっていない。市来氏はなぜ、「宗家橘公業」「惟基も小鹿」と書いたのか。健在であればぜひ聞きたいところだったが、昨春に北薩のゆかりの地を訪ねてみると、高齢のため随分前に亡くなっていたことが分かった。ご遺族に連絡を取り、市来氏が収集した膨大な資料がそのまま家の中に残っていることまでは確認したが、今回の取材ではそれを検証する時間がなくなって、市来氏宅を訪れることができなかった。以広・惟広は実は京都橘氏の系統であるという、当初予想もしなかった驚くべき方向性が明らかになって、そちらの取材に集中せざるをえなかったためだ。もう一人取材できなかったのは、白河斑目氏の関連史を詳述する『斑目家由来について』(昭和41年)の著者、福島県須賀川市の斑目長作氏である。

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