『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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292いるんじゃないかなあと、私は思いますね。――以前から思っているんですか? それとも、たまたま私が問い合わせたから(笑)?いや、やっぱり「元慶の乱」を調べたうえで、どう考えれば斑目四郎の字名と対応するか、遺跡の分布と対応するかといったことを考えているわけですよ。私は横手盆地の方を中心に研究しているのですが、「斑目」の地名について、一方では横手にあると言われながらも、大字、小字をいくら検索してみても出てこないもんですから。やっぱり清原氏の勢力というか、吉美侯氏の勢力は北部の秋田市周辺まで広がっていたと思うんですよ。――斑目四郎の情報は前九年合戦(1062年)以降、なぜ全くないんですかね。後三年合戦(1083~1087年)で勝者となった藤原清衡の側に居たからかもしれませんね。清原一族の本来の本流である光頼、頼遠たちの名前が出てこないのは清衡側についていたからですよ。だから、あえて書き残す必要がなかった。吉彦秀武も一応清衡側

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