『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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263第11章 白河斑目家の橘姓はどこから②「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」。そう豪語した中央政界の大立者、藤原道長の側近として「道」の字を貰い受けた橘道貞が長保六年(1004年)、陸奥国トップの陸奥守に就任している。妻は歌人として名高い和泉式部。当時の陸奥・出羽の関係の深さからして、出羽国にまで影響力を持っただろう。秋田北部を本拠地に斑目四郎と同じく前九年合戦で司令官を務めた橘貞頼・頼貞兄弟をめぐり、「兄弟の名の『貞』という通字から考えて、道貞の子孫であろう」と見る学者は野口実・京都女子大教授ばかりではない。そうだとす*斑目氏の先祖たちが在庁官人になっていたと見られる秋田城址。

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