『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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192――以広と惟広は藤原氏の天下の朝廷では、もう将来がないから京都を捨てて鎌倉に来て、鎌倉で死んだんだと思っていました。そうじゃなくて、行ったり来たりしていた可能性があるんですか。あります、あります。――朝廷から見たら、京都を捨てた裏切者が、とはならないわけですか。そこまで朝廷と鎌倉幕府の関係はわるくありませんから。朝廷が平氏を切り捨て、鎌倉幕府を選んだ時点で、一定程度の協調関係にあるという事でしょう。自身の権力を確立したい頼朝からしても、元々、武士は朝廷に武力をもって奉仕することで認められたわけですから。頼朝は御家人が自分に断わりなく官職に就くことを非常に不快がっていたようですが、たぶん御家人たちからすれば官職を求めるのは当たり前だったはずです。

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