『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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171第8章 清水亮氏インタビュー鹿児島の『斑目家文書』に「橘元長が建永元年(1206年)に斑目郷の地頭になった」って出てきますよね。その元長の系統じゃないかなあと思っています。文書の信憑性にやや揺らぎがあろうと、彼が斑目郷を鎌倉時代に持っていたことは、そこまで否定するのは難しいのではないでしょうか。――その斑目郷については、斑目惟基が後を継いで地頭になったものの、宝治合戦(1247年)の余波を受けて領地を没収され、鹿児島へ逃れて行っています。惟秀が生きた時代の一世紀近く前のことです。「領地を没収され」ということの中身が問題ですね。江戸時代の藩の改易とは違いますからね。仮に、惟基が地頭職を没収されたとしますね。でも、地頭職を奪われることと、田地や屋敷を取られることとは全く別の問題です。地頭職は荘園・公領の現地管理権なので、管理権を没収されたからといって、すべての権益を没収されたとまではいえない。全てを失うパターンもありますが、むしろ全ては無くならない方が多い。斑目郷に領地が残っていれば、惟秀もそこを本領としていたということはあると思います。

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