『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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158確かに、その伝承の中には疑問符がはっきりと付く部分もある。例えば、「白河斑目家の祖」とされる「直則」の傍注に、歴史学者たちがそろって首をひねるくだりがある。現代語訳して言えば、「源頼朝の子・朝広が文治五年(1189年)、結城朝光の養子となるため茨城県の結城に向かった。朝光は頼朝の奥州合戦に従軍して勲功を挙げ、福島県の白川・岩瀬の二郡を貰っている。斑目直則は、朝広が結城へ養子入りした時に、頼朝の命で一緒に付いてきた。直則は朝光がもらった白川郡の本沼村の館に住み、3000貫を領して斑目氏の祖となった」というもの。このくだりの中には「頼朝の子・朝広」「3000貫を領し」など、歴史学の常識からして否定される内容が含まれている。このため「直則」の実在の信憑性を貶めているのだが、それによって「直則」のすべてが疑われるものではなく、存在自体が否定されるものでもない。この種の系図によくある類いの脚色による玉石混交状態にすぎないのだから、あくまでも全否定することなく、「玉」をしっかりと見定めるべきということだろう。

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