『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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155第7章 疑わしきは「家伝」の利益に『白河斑目氏系図』で惟秀以前の世代と思われる「直則」「広顕」「直義」「清武」たちについては、他の文書に全く名前が出て来ない。このため実在性が疑われ、歴史学の立場としては判断材料から排除せざるをえない。その結果として、「白河斑目家の祖」は惟秀となり、惟秀の子孫たち、すなわち東日本斑目家も京都橘氏の流れとなるということだ。ちなみに、福島県西郷村の『広報・西郷 No.419』(平成17年11月号)には、地元の「梅宮神社」の伝承を紹介する記事として、以下のような記述がある。「『白河風土記』によれば、昔、この地に住んでいた斑目信濃守則常が、氏神であった京の梅宮大社を勧請したとあります。また則常も、もと京都の人と書かれています。……(中略)……則常がもと京都の人ではなく、斑目氏自体が京都出身で、橘氏の氏神であった梅宮大社を斑目氏の氏神としても祀ったと考えられます」また斑目長作氏の『斑目家由来について』にも、則常について「応永の頃京都より来た

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