『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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154同内房」とある。第一位の「周防守」が惟秀のことと思われる。「斑目」が一、二位に置かれていることからして、それだけ重要人物になっていたと見ることもできるが、学者数人に聞いてみたところ、「その可能性もあるが、他の基準による順番とか順不同ということも十分ある」ということだった。東日本の「斑目惟秀」は以上のように、「1341年」「1343年」「1370年」の人物である。これに対し、京都橘氏の「斑目惟秀」は『橘姓斑目氏系図(増補版)』の世代計算で「13世紀末から14世紀半ばぐらいを生きた」人物である。二人の「斑目惟秀」の生存時期はかなり重なっており、同一人物である可能性がある。そうだとすれば、歴史学の立場から見た場合は、東日本斑目家も京都橘氏の流れ、つまり④の「橘広房の子孫である可能性がある」ということになる。なぜかと言えば、白河斑目氏のうち、れっきとした歴史史料と認められる文書に名前が残る人物としては、惟秀がいちばん古い人物となるからだ。

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