『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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139第7章 疑わしきは「家伝」の利益に泉田村龍ケ入「元龍ケ山とも称せしとのこと」と云ふ所に来住し後同村字舘「元館之内とも云ふ」に移住す後方は杉森にしてその高地を選びこゝに斑目家の氏神として三社を祀る「八幡神社、稲荷大明神、天満宮」毎年旧暦二月初午を祭日と定めこの日天正の頃は斑目家集まり前方に筵を敷き祝宴を催したるとも云はるゝ杉を伐採したる所に居館を建てたといはる斑目家の系図書は氏神を祀りし地許に保存する事としその際保管の記念として長刀一振贈与せしと伝えらるゝ「現在斑目義雄氏宅」斑目家はお正月の元日詣りは初めこの氏神を拝しそれより両鎮守を参拝する例になりつゝある……(原文ママ、以下略)。その『白河斑目氏系図』の冒頭、斑目氏は橘一族の流れであると主張するかのように、6世紀半ばの「敏達天皇」から始まって、王子一人と親王一人を経て「橘諸兄」につながり、九代をはさんで「橘遠とおやす保」へといたる。さらに八代をはさんで「白川之祖」と添書きされた「直則」につながる。素人目にも「敏達天皇」から「直則」につながる辺りまでは、ホントかな? という印象を自ずと持ってしまう。宝賀寿男氏に見てもらうと、アッサリとこともなげに「よくある橘遠保の流れの系図で

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