『薩摩斑目家』の歴史
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91四★鹿児島国際大学短期大学部名誉教授・三木靖氏インタビューける可能性は、極めて少ないと見るのが自然でしょう。だから、「薩摩斑目家」の始祖である可能性は極めて高いと言えます。 ―さらに、第一陣司令官の荒川太郎武貞を初めとして、第七陣までの司令官のみなが出羽国の地名にまつわる名前を名乗っているのだから、第六陣司令官の斑目四郎の出身地も出羽国と考えていいのでしょうか。三木 それ以外考えられないでしょう。地名によって人名ができるというのが、中世の時代の原則ですからね。その時代の原則からして、全く関係がない遠隔の地の名を持ってきても誰も認めないから、そんなこと考えもしなかったと思いますよ。やっぱり名前は、自分と関係がある地名から取るんですよ。その辺はもう、常識としか言いようがないですけど。 ―斑目家の子孫として、その「一三〇〇年史」をまとめた故・班目文雄氏は、「日本中で斑目の地名があるのは相模国だけ」ということで、相模出身説なんですが。

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