『薩摩斑目家』の歴史
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89参★祁答院の斑目家守護職・島津忠昌の渋谷氏攻めにともなって、藺牟田城は猛攻撃に遭って陥落、右京進ら35名が無残にも討ち殺された、というものだ。「前九年の役」の斑目四郎から400年余り。斑目姓を冠した最後の武将でもあった。これより後の「斑目家文書」は、70余年後である永禄元年(1558年)、水田寄進について記録した「斑目広通寄進状案」の一通だけである。以後、祁答院では斑目氏の動向は杳として知れぬものとなっていく。やがて、島津家の攻勢が続く中で、祁答院家が滅んだ。そして斑目氏は、島津家の家臣となり、薩摩の北の守りの要衝、出水麓に移住した、といわれる―。

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