『薩摩斑目家』の歴史
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88ら要請があり、そこで郎党を引き連れて行くことになります」土地関連の何通もの証文、そして2通の着到状。「薩摩斑目家」が中世動乱の時代、幾多の事件の荒波に身を浮き沈みさせながらも、名跡を懸命に守り抜こうとした姿が彷彿とする。☆斑目右京進祁答院の大地を自身の血で染めて、息絶えた1人の男がいる。名を、斑目右京進という。「斑目家文書」に残る家系図で言えば、政泰とともに博多に着到した政行から四代下った、久広のことだ。この右京進、文明一六年(1484年)には、祁答院内の一角に広がる藺いむた牟田城という山城の守将となっていた。山の平坦な土地を柵で囲み、内側に何本もの掘っ立て柱を使って建てた館である。この右京進をめぐって、わずかに地誌に残された伝承がある。

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