『薩摩斑目家』の歴史
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79参★祁答院の斑目家じですね」(佐藤真人氏)「斑目氏の場合は、譲り受けた土地の広さではなく、その位置が重要だと思います。時吉の借屋原なんてのは、祁答院氏が最初に拠点としていた地域と、大前氏の最も支配力が強い所領との間にある。つまり、非常に重要な緩衝地帯となる土地です。ですから、祁答院氏は大前氏への押さえとして、名前が売れている斑目氏を置いたのではないかと思います」 斑目氏の所領譲与・安堵一覧 (薩摩町郷土誌より)文書番号譲与・安堵年譲与・安堵者(法号)譲受・被安堵者(法号)譲与・安堵の土地備 考①正応元年(1288年)祁答院重松(行蓮)斑目泰基(聖蓮)柏原の内河口の野 あらい新田等異国警固の代官謝礼②正応二年(1289年)斑目泰基(聖蓮)斑目景泰柏原の内下河口の田 在家等正応三年(1290年)斑目文書の「蓮性陳状案」に「被召出正応四年并同六年正月廿七日譲状」とあるが、原文文書なし正応六年(1293年)③建武二年(1335年)祁答院重実斑目三郎(行広か)借屋原村忠誠に対する報酬か④正平廿二年(1367年)斑目行広(祖銛)斑目豊犬丸柏原の内下河口村 時吉の内の借屋原村①③と同じ⑤応永二年(1395年)平重朝斑目松熊丸柏原の内下河口村 時吉の内下□□□①③と同じ⑥応永五年(1398年)祁答院重茂斑目万寿丸柏原の内下河口 時吉の内借屋村⑦応永十年(1403年)斑目延広(昌的)千寿丸時吉の内下借屋原の内鎮守丸田

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