『薩摩斑目家』の歴史
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75参★祁答院の斑目家の正史「吾妻鏡」の成立は、泰基の養子入りより後の1300年頃となるものの、以広や惟広は鎌倉の政権中枢で活躍していた。その頃、渋谷家の先祖も周辺にいたはずで、二人の栄誉を見聞するうち一目置くようになった、という流れは十分ありうることだ。斑目家のそんな名跡ゆえに、こんなことも考えられるという。(佐藤真人氏)「僕が注目するのは、斑目氏を本来継ぐべき人物たちが宝治合戦で自害してしまったという事実です。しかも出羽の国の所領を没収され、もう斑目氏を滅ぼす恰好になる。当時は個というよりも、家を残す、名跡を残すことがなによりも重視された時代。だから、由緒ある家柄を葬り去るというのは、上の命令でやったこととはいえ、当事者にはかなり抵抗があることなんです。渋谷家というのは宝治合戦では、確かに斑目家を滅ぼした側の人間です。だからこそ逆に、斑目の名跡だけでも残したいと、養子を入れた。そういったこともありうると思いますね」佐藤氏の見解に、個人的な思いが微妙に滲む。宮之城歴史資料センターでの職務として、

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