『薩摩斑目家』の歴史
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72広長と長高が含まれていた、というものだ。惟基は事件への関与はなかったが他所、つまり薩摩への避難を余儀なくされた、というのである。これも、史料で裏付けられているわけではないが、宝治合戦からの脈絡が比較的通りやすいぶん、現下の有力な説となっている。さて、残るは④の泰基下向説である―。☆泰基の養子入り斑目泰基とは、そもそもいかなる人物なのか。北薩地頭として勢力を張る渋谷一族の庶子として生まれ育ち、十三世紀後半に斑目惟基の養子となった。いわば渋谷家のDNAと斑目家の名跡を一体化させた、「薩摩斑目家」のキーパーソンだ。出羽国地頭を追われた惟基の養子ということは、広長・長高の父子自害に始まり斑目家を崩壊させるにいたった宝治合戦の狂おしい影を、濃厚に引きずっていたに違いない。

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