『薩摩斑目家』の歴史
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70ら土地が遠いとか、辺鄙であるといったことでは評価できない。特に、この祁答院は、川内川流域を使った中国との交易が盛んだった可能性のあることが発掘調査で分かっています。中国の青磁や白磁といったものが出てきていますから。中国との交易を行うと立派に利益が上がるから、地域支配のしがいが大きくあったと思います。他にも地頭というのは、各地の武士たちを鎌倉幕府の枠の中に入れ込んでいくという、基本的な役割を帯びてもいたでしょうから」ただ佐藤氏も、そうは言っても、結局は文雄氏と同様の思いになるのだ。(佐藤真人氏)「斑目家の人がこちらにいたと確実に言えるのは、建永の年代よりも、だいぶ後の時代になります。宝治合戦の結果として斑目広重が自害したり、出羽国の地頭をしていた斑目惟基がこっちに逃げて来たりして、斑目家が潰されるまでは出羽の国に本領があるわけです。だから当然、以広がこっちにやって来るとしたら、そのあとになると思うんですよ。史料としてはそんなの見たことないですけど、まあ渋谷の家なんかに︙︙、ないなあ、可能性はないですね(笑)。本当は来ていなくても、有名な人物の場合、その

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