『薩摩斑目家』の歴史
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69参★祁答院の斑目家いったん、というのは、同著の後の方になって、「(斑目六郎は)建永元年にはまだ生きていたのであろうか。しかも入道しているのであるから、政界からは、既に第一線をしりぞいていたのだろう。まったく可能性のない話ではない。しかし鎌倉幕府の高官であった橘以広としては、わざわざ出羽の国から、遠い薩摩の国に出掛け、そこで地頭になるとは、前職との釣り合いがわるい」とやむをえず疑問符を付けるにいたっているからだ。江戸時代に編纂された地誌の類いである「祁答院記」に以広薩摩入部の記述はあるが、彼の痕跡も薩摩の地に見当たらない。客観的な史料状況が「以広入部」の可能性を認めないのだから、文雄氏が揺れるのも当然だ。余談になるが、「鎌倉幕府の高官だった以広が遠い薩摩に来て地頭になるのでは、前職と釣り合わない」かどうかについては、異論が可能なようだ。(佐藤真人氏)「これはそんなに不思議なことではありません。当時の鎌倉御家人の所領は、全国のいろんな土地に飛び地状に持っているというのが、大きな特徴です。ですか

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