『薩摩斑目家』の歴史
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67参★祁答院の斑目家院に入部した。③宝治合戦(1247年)の余波で所領を没収された出羽国地頭の斑目惟基が、薩摩に避難してきた。④鎌倉で暮らしていた渋谷一族の庶子・泰基が、斑目家に養子に入ったのを機に、薩摩・祁答院に下向してきた。四つも説があるのだから、一つぐらい事実を直接証明する史料がありそうなものだが、遠い時代ゆえにそう簡単にはいかない。長い間には、さまざまな意図や噂の類いが「伝承」となって、後の時代の地誌類にもっともらしく記載され、時代の変遷とともに「事実」として語られるようになる。特に江戸時代は、そうした「伝承」が「事実」として信じられていった時代であるという。① の忠久警固説については、斑目家に限らず、他の一族についても同様に「警護役とし

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