『薩摩斑目家』の歴史
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43参★祁答院の斑目家博物館でもあった寺の倉庫は焼けてしまい、何も残っていない。さらに、西南の役がそれに輪をかけ、生活の混乱が深刻化する中、歴史の膨大な記録が失われていった。由緒ある武家や寺に伝わった古文書の大半が、焼失、流出、散逸してしまっているのが、鹿児島の無惨な特徴である。「斑目家文書」は、そんな歴史を生き残ってきたのだ。(佐藤真人氏)「特にこの辺は、武士が異常に多くいて、うちの先祖はこういう武士だったといった文書を必ず残していたのですが、いろんな混乱のドタバタで持ち出されたり、紛失したりした。だから、通常は文書なんか残っていません。そういう中、斑目家では文書が残っていた。それだけで、斑目家というのはきちっとした出自の家だったんだなあという印象を持ちます。家柄としてしっかりしていたからこそ、文書を後世に残さないといけないという意識が、家中に明確にあったんだと思います」(栗林文夫氏)「文書自体は、人とのやり取りや手紙など、日頃からたくさん作成して

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