『薩摩斑目家』の歴史
44/189

42建永元年の「出羽国斑目地頭職補任状案」に始まる約三百五十年間の文書。この「斑目家文書」が長い歴史を生き残ってきたこと、そのものの意味を、まずは考えてみよう。「斑目家文書」の作成が集中した約百二十年間とは―後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府討幕の策動である「正中の変」(1324年)と「元弘の変」(1331年)▽鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇が「親政」を開始した「建武の新政」(1334年)▽足利尊氏が光明天皇によって征夷大将軍に補任された室町幕府の開始(1338年)▽南朝と北朝、公家と武家の確執を背景に室町幕府が揺れた「観応の擾乱」(1350年)▽山名氏が室町幕府に対して反乱を起こした「明徳の乱」(1391年)▽朝廷が建武3年(1336年)以来の分裂状態を終了させた「南北朝合一」(1392年)▽大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こした「応永の乱」(1399年)―など、歴史的事件が続いた時代である。この期間を見るだけでも、たいへんな歴史の激動ぶりである。さらに鹿児島では、幕末から明治初めの時期、「廃仏毀釈」という名の社会秩序の破壊活動が、最も激しく徹底していた。寺はすべて潰され、僧侶もみな還俗させられ、過去帳も残されなかった。地域の

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です