『薩摩斑目家』の歴史
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155七★出水市歴史民俗資料館副総括責任者・肱岡隆夫氏インタビュー6年生から22、23歳ぐらいまで続く。一緒に寝泊まりしながら、先輩から討論形式で武士としての実践的判断力を養う「詮議」をふっかけられたりで、もう戦国時代がずうっと続いている(笑)。さらにそこに、江戸時代の後期になって「出水兵児修養掟」ができてきたわけです。 ―出水兵児は戊辰戦争では大活躍したけど、西南戦争ではちょっと様子が違ったとか。肱岡 西南戦争に出軍した出水士族の、面白い名簿があります。三つのグループに区分されていて、最初が「私学校」、二番目が「有志」。そして、三番目が何だと思いますか。「脅迫」なんですよ(笑)。これは西南戦争が終わった時に、巡査が関係者から聞き取ってまとめたものです。「私学校」が約200人、「有志」も約200人、あとは「脅迫」が500から600人ぐらいです。もっとも、ここは戦場になりましたから、攻められたら、自分のところは守らないかんわけですので、その局面にいたってはもう「西南戦争」じゃない。もう自分のところを守るための戦いでもあったわけですね。

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