『薩摩斑目家』の歴史
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137七★出水市歴史民俗資料館副総括責任者・肱岡隆夫氏インタビュー肱岡 島津宗家と対立していた薩州島津家は、文禄の役の不始末により、秀吉から改易の処分を受け、家臣たちは流浪の身となってしまう。島津宗家にとっては、北の肥後に加藤清正がいて、国境を固めることが喫緊の大事なのだけど、それ以前の問題があった。出水には流浪の身となった薩州家の元家臣たちが600人もゴロゴロしていた。赤穂5万石なんて武士が300人しかいないのに、出水だけで600人ですから。島津宗家にとっては、この不届きな薩州島津家の家臣どもをどうするかが、目の前の大きな難題だった。それで結局は、島津宗家の家臣として召し抱えていくことになっ*島津宗家との対立を歴史に刻んだ薩州島津家の墓

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