『薩摩斑目家』の歴史
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128紀初めの「2番」で70石を持っていた本家を、いま継承しているのが力曠さんということだ。日仏氏が生前に力曠さんに語った話によると、斑目家には中世・渋谷家からの泰基を初めとして計4人の養子が入っているという。そのつどに血脈は絶えたことになるが、「斑目家」という名の名跡に血脈を超える価値を置いて、なんとか長い歴史を継承し続けているのだ。際立つやり手だった仲左衛門の子孫の平次郎の家では、戸主が平右衛門へと変わり、石数は16石で微減。半世紀以上時が経過していることと考え合わせると、「微減」をいかに評価すべきか。斑目氏の残りの一戸では、先述した竹添弥八兵衛の日記で顔を見せていた「郡見廻の六郎」が戸主となっており、9石7斗と奮闘している。幕末の動乱から明治の維新へと向かう慶応三年(1867年)の「88番」。猪之助の家では藤右ヱ門が継いでいるが、石高は1斗3升とこれ以下はないというほどのどん底状態に。この藤右ヱ門こそが日仏氏の父、力曠さんの祖父にあたる。こうした極めて厳しい環境に育ったがゆえかどうか、日仏氏は15歳の時点で世直しを志して政治家になることを夢

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