『薩摩斑目家』の歴史
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117五★出水麓の斑目氏「1石7斗」では家族さえ食べることができず、郎党も養うことは不可能となってしまっただろう。善兵衛尉の家では武士の構えが崩壊してしまったことになる。もっと言ってしまえば、これらの数字は籾高かつ税込額であり、いわば給料の額面高にすぎない。実際の手取り高はさらに大幅に減る。こうした苦境をしのぐために、麓の郷士たちは次第に農民同様の生活に陥っていったと言われる。実は、先にも少しふれたが、軍役高帳は見方次第で情報の宝庫に変わる。この「3番」を見ても、「2番」で藤左ヱ門尉より先に名前が置かれていた23戸のうち、半数の11戸の名前が早くも消えている。なぜなのか。一つ言われていることは、島津家が薩摩全体を統治する体制を盤石なものにするために、中世期に有力武士として各地に勢力を築いていた者たちを、家臣化することで弱体化させようとした。その手段として、外城制度を使って頻繁に各麓間を移動させ、影響力を保持していた地域とのつながりを断ったということだ。

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